便利調理家電は本当に“うまい”食べ物を作れるのか?
気がつけば、家電売り場にはずらりと並ぶ調理家電たち。
炊飯器一つとっても、圧力式だの、土鍋釜だの、蒸気レスだのと機能は年々進化し続け、ボタンひとつで本格的なごはんが炊ける時代になった。さらに最近では、自動で炒めてくれる鍋、自動で焼き上げるオーブン、材料を入れたらほったらかしで完成するスープメーカーなど、まさに「放っておけば料理ができる」家電が次から次へと登場している。
テレビをつければ、バラエティー番組では家電芸人が感嘆の声をあげ、SNSでは実際に使ってみた動画やレビューが日々投稿されている。
この流れの背景には、言うまでもなく時代の変化がある。
女性も働きに出て、子育てや家事と仕事の両立に追われる毎日。
専業主婦という言葉が徐々に使われなくなりつつある現代において、調理家電の「時短」「簡単」「失敗しない」というキーワードがこれほどまでに響くのは、当然のことなのかもしれない。
ほんとうに、今を生きる女性たちには頭が下がる思いだ。
どれだけ忙しくても、家族の健康や笑顔を考え、限られた時間で工夫を凝らし、温かい食事を用意してくれる。その姿勢には、ただただ感謝しかない。
……ただ、今日の話は、そんなリスペクトとは少し離れた、もっと個人的な、昔を懐かしむひとりごとのような話として聞いてほしい。
私が子どもだった頃の話だ。
昭和の終わりから平成のはじめにかけての、あの少し色あせたフィルムのような時代。
まだ家の電話が黒くて、コードがくるくるとねじれていて、スマートフォンなんてまだまだ現れない時代。
夕方になると、母はいつも台所に立っていた。
エプロンを身につけて、ラジオを流しながら、野菜を切る音や煮物の香りが台所から漂ってくる。そして時折「味見してみる?」と差し出されたおたま。あの頃は「便利家電」なんて言葉すらなかった気がする。夕飯の支度にかける時間は、1時間、時には2時間。それが当たり前の光景だった。
冷蔵庫には、特別な食材なんて入っていなかった。けれど、母の手にかかれば、なんでもごちそうになった。
肉じゃが、きんぴら、ほうれん草のおひたし、煮魚、味噌汁。
なかでも私は、具だくさんの豚汁が好きだった。
「今日は寒いから、豚汁にしといたよ」と母が言いながらよそってくれるその一杯には、体だけじゃなく心までじんわりと温まる不思議な力があった。
今こんなことを言うのは少し恥ずかしいが、私は母が作った豚汁に、白いご飯を入れて食べるのが好きだった。まさにおふくろの味だと思う。
そんな母の影響もあって、私はいま、料理が好きだ。便利調理家電に興味がないわけじゃない。でも、どうしても手が伸びない。
料理というのは、手間や時間の問題じゃないのかもしれない。
もちろん便利調理家電を使っても、おいしいものは作れる。むしろ、私が適当に作った煮物より、家電のほうが上手に仕上げることもあるだろう。でも、その“うまさ”は、どこか機械的で、均質で、記憶に残りにくい味な気がする。
実際私が体験した話、ある日妻が便利調理家電で夕飯を作ってくれた日があった。
「今日はこれで作ってみたんだよ、すごく簡単で助かる!」と笑顔で話す妻に、私はもちろん「ありがとう」と心から言う。料理は手段ではなく、気持ちのこもった行為だからだ。しかし私は、この会話に少し違和感がある。
この瞬間、会話の主役は料理ではなく“家電”になる気がする。
私は、本当はこんな会話がしたいのかもしれない。
「今日の煮物、なんか深い味だね。もしかして、砂糖の代わりにみりんを多めにした?」
「このお味噌汁、だしの感じが違うけど、昆布と鰹を合わせた?」
そんな風に、味付けの工夫やちょっとした冒険について話したくなる。
料理が好きだからかもしれない。
味の奥にある“作り手の考え”を知ることが、食べるという行為をより豊かにしてくれると思っている。
そして何より、思い出すのは“おふくろの味”だ。
あの言葉には、単に家庭料理という意味以上の、何か温かいものが詰まっている気がする。
それは調理を簡潔に終わらせる過程に焦点はなく、純粋に「我が子にうまいものを食べさせてあげたい」という、目に見えない調味料のようなもの。時間も手間も惜しまず、毎日その日の体調や季節を考えて、母が作ってくれたごはんには、そんな気持ちがふんだんに溶け込んでいた。
そして、その味は今でも、ふとしたときに恋しくなる。
たとえ高級レストランに行っても、どんなに有名なシェフの料理を食べても、あの豚汁の味が忘れられない。
時代は変わる。
家族の形も、家庭の風景も、そして家電の性能も日進月歩で進化していく。
それを否定するつもりはないし、むしろ現代の知恵として大いに活用すべきだと思っている。
でも、「うまい」という感覚だけは、少しだけ立ち止まって、過去を思い出してみてもいいのかもしれない。
あの頃、母が台所でこしらえていた料理。
あの味こそが、私にとっての“うまい”の原点なのだから。