モノと記憶と、少しの学びblog

モノと記憶のよもやま話

同じ家の中、別々の世界。――モバイル時代の家族のかたち

親も子も、同じ家の中にいるのに別々の世界にいざなうモバイルツール

ある日の夕食後、食器を片付け終えたタイミングで、我が子はそそくさと自室へと引き上げていった。部屋の扉の向こうからは、YouTubeの軽快なBGMと、どこかテンションの高い声が漏れ聞こえる。ふと時計を見ると、まだ19時にもなっていない。私たち親世代の感覚なら、家族が団欒の時間を過ごしていてもおかしくない時間帯だ。けれど今、子どもは自室でスマホやゲーム機を使い、YouTubeの世界に没頭している。

 

それにしても、最近の子どもたちは実に「見たいものを、見たいときに、見たいだけ」楽しめる時代を生きている。YouTubeはもちろん、動画配信サービスにゲーム機、スマホタブレットまで、あらゆるデバイスが彼らの興味を満たすために並んでいる。しかも、その映像の美しさときたら、驚くほどに鮮明だ。

 

家電量販店に足を運ぶと、ズラリと並ぶ大型テレビが目に入る。どれもまるでガラスのように滑らかで、肉眼で見る現実と遜色ないほどの映像を映し出している。4Kだの、8Kだの、HDRだの、聞き慣れない単語がポップと共に並び、私の頭の中ではもはや情報過多で混乱してしまう。

それだけ技術が進化したのは素晴らしいことだし、開発に尽力した人々には脱帽だ。しかし一方で、私はどこか怖さのようなものも感じている。映像が美しすぎるあまり、現実と仮想の境界が曖昧になることもあるのではないか。あまりに鮮やかで、あまりに刺激的な映像は、視覚だけでなく、脳にまで過剰な負荷をかけているのでは…と考えてしまうのだ。

 

最近では「画面酔い」なる言葉も聞くようになった。乗り物酔いのように、あまりに激しい動きや色彩、視点の変化に脳が追いつかず、気分が悪くなるというものだそうだ。ゲームや動画視聴に夢中になっている我が子を見ていると、ふと「今のこの状態は本当に健康的なのか」と不安になることがある。

 

それに引き換え、私の子ども時代の映像体験といえば、まるで別世界だった。テレビは今のように薄型ではなく、ぶ厚い正方形の箱のようなもの。部屋の角に斜めに置かれて、まるで家具の一部のようだった。ファミコンを繋ぐには、赤・白・黄色のコードをテレビに挿して、ビデオ1に切り替える必要があった。接触が悪くなれば、コードを抜き差ししたり、コードの接続部分に何かを挟んで映りのいいところで固定する、という奥義も習得していた。

 

しかも、家にテレビは一台だけ。当然、見たい番組が家族でかぶれば、そこに“争い”が生まれる。父は野球中継、私はアニメ。よくチャンネルを変えて怒られた。今でも覚えているのは、月曜日にプロ野球中継がないと知ったのが、唯一自分の好きな番組を見られる曜日だったからだ。理不尽に思いつつも、それでも一緒にテレビを囲む時間は、家族の時間だった。時にはケンカもし、笑いもあった。

 

だが、今はどうだろう。

リビングには誰もいない。食後、それぞれが自室や別の空間へと散り、スマホタブレットに向かう。それぞれの世界へ、各自がログインしていく。たとえ同じ家の中にいても、家族全員が全く違うコンテンツに没頭している。茶の間には、誰もいない。音声アシスタントが静かに時間を告げるだけで、会話はどこにもない。

 

こんなに便利で、こんなに自由で、こんなにも鮮明な映像が身近になったというのに。そこに“温度”はあるのだろうか?

 

もちろん、技術の進化は悪いことばかりではない。子どもが興味を持つジャンルの知識を深められたり、世界の出来事にリアルタイムで触れられたり、学びの幅が広がるという利点もある。だが、気づけば私たちは「会話しなくても何となく過ごせてしまう」環境を、当たり前のものとして受け入れているようにも感じるのだ。

 

ふと思う。

今の親たちは、自分の子どもが今日、学校で何を学んだのかを知っているだろうか?
今日の給食に何が出たか、答えられるだろうか?
子どもが最近好きな曲、今ハマっている遊び、クラスでのちょっとした出来事──
そういった日常の些細な“会話のきっかけ”を、いつの間にかスマホの画面に奪われてしまってはいないだろうか。

 

自分の見たいものを、自分の好きなタイミングで、自分だけのために見ることができる。そんな自由と便利さを手に入れた現代。だけど、もしかすると、私たちは「本当に見るべきもの」を見失っているのかもしれない。

それは、画面の向こうにある何かではなく、今ここにいる、目の前の“家族”という存在なのではないだろうか。