モノと記憶と、少しの学びblog

モノと記憶のよもやま話

1分間、じっとしていられますか?

心を亡くす3分間

毎朝のことだ。
私は目が覚めると、まずキッチンへと向かう。コーヒーカップに牛乳を注ぎ、インスタントのコーヒー粉をスプーン一杯加える。そしてそれを電子レンジに入れて、タイマーを3分にセット。これが、私の「朝のはじまり」だ。

この3分間のうちに、私は洗面所に立ち、顔を洗い、お手洗いを済ませる。カーテンを開け、窓を開けて、部屋に朝の空気を取り込む。小さな家の中を、目まぐるしく動き回る。まるで、電子レンジの「チン!」という音が、すべてのゴールのように。

3分が終わり、コーヒーの香ばしい匂いが私の鼻をくすぐる頃には、朝の準備の半分が終わっている。ふぅ、と一息。なんの変哲もない、けれど私にとっては欠かせない朝のルーティン。

 

けれど最近、その“いつも通り”が、少しだけしんどい。
仕事の忙しさに追われ、体も心も、少しずつ余裕がなくなっていたのだろう。ふと立ち止まることさえ、面倒に感じる。ある朝、いつものようにレンジにコーヒーをセットした私は、動き出そうとしたその瞬間、ふわっと漂ったコーヒー粉の香りに、なぜだか足を止めた。その香りが、私の心と体を、静かに、でも確かに“止めた”のだ。

 

私はキッチンの片隅に立ったまま、何もしない時間を過ごした。
レンジの中でくるくると回るカップを眺めながら、深く呼吸をした。意識して、吸って、吐いて。そんなの久しぶりだった気がする。頭の中のやらなければいけないことリストが一瞬だけ静かになり、心の中にぽっかりと「空白」が生まれた。

「あれ? これって瞑想に近いのかもしれないな」
ふと、そんなことを思った。


今の世の中、私たちは本当に“忙しい”。
仕事に家事、子育て。SNSの通知は絶え間なく、スマホを開けば最新ニュースやトレンドがどんどん流れてくる。AIツールも、どんどん進化して、今や「使いこなす」こと自体がスキルとされる。
もはや「じっとすること」が、特別なスキルにすら思えるのだ。

 

日常の中で、私たちは“あいだ作業”にすっかり慣れてしまっている。
洗濯機が回っている間に掃除機をかけ、その間にトイレ掃除、本棚整理、クローゼットの見直し…。あいだ、あいだ、あいだ。その隙間を埋めるように、私たちは絶え間なく動き続けている。

けれど、それは本当に“効率的”な生き方なのだろうか?

 

たとえば、何かの作業を終えたあと、「あっ、あれやってなかった!」と気づいた瞬間に感じる、あの得体の知れない損失感。まるで人生の一部を落としてしまったかのような、あの胸のざわつき。それは「時間を最大限使い切れなかった」という焦りから来るのかもしれない。だけど、そこにあるのは本当に“充実”なのか?

私は時々、こう思うようになった。私たちは、効率よく時間を使っているようで、

実は“時間に使われている”のではないか、と。


最近、企業でも「瞑想」を取り入れる動きがあるという。
“何もしない時間”を、意識的に取り入れることで、心を整え、集中力を高めるのだという。かつては「何もしていない=怠けている」と思われていたこの時間が、今ではむしろ生産性向上のカギとして注目されているのだから、時代の流れは面白い。

 

もちろん、私は「電子レンジの3分で瞑想をしよう!」なんて無理は言わない。
けれど、その3分、せめて1分だけでも、スマホを手放して、深呼吸してみる。カフェオレの香りを、ただ感じてみる。その静かな時間が、思った以上に自分の“中”を整えてくれることがある。

1分間、じっとする。


それは、想像以上に難しい。無意識にポケットのスマホに手が伸びるし、予定やタスクが頭に浮かんでくる。でも、だからこそ、それが“贅沢な時間”になる。


子どもの頃、時間はあんなにゆっくり流れていたのに、
いつからだろう。1日があっという間に終わるようになったのは。

それは、私たちが「何かをしている時間」ばかりを追いかけて、「何もしていない時間」に価値を見出せなくなっているからかもしれない。

立ち止まること。
静かになること。
じっとすること。

どれも、今の時代に必要な“逆張りの力”かもしれない。


今日もまた、私はレンジにカフェオレを入れる。
でも今朝は、顔を洗う前に、少しだけキッチンで立ち止まってみた。
レンジの回る音と、コーヒーの香り。そして、流れる自分の呼吸の音だけが、そこにあった。

「あなたは、1分間、じっとすることができますか?」