極論を試してみる。目的達成のハードルは意外と低いかもしれない
私は昔から「炭酸のジュース」が好きだった。
コーラ、ジンジャエール、ファンタ…枚挙にいとまがない甘くて炭酸の効いた飲み物が好きだった。お酒は一滴も飲まない。しかし、休日の夜、そんな甘美な炭酸飲料を片手に、撮りためた映画やドラマを観るのが何よりの楽しみだった。炭酸ジュースとスナック菓子を並べた小さな宴。誰に披露するでもないが、週末が少し特別になる、そんな自分なりの儀式だった。
ところが、ここ10年ほどで「糖分の摂り過ぎ」に対する警鐘が世の中で大きく鳴り響くようになった。コンビニやスーパーに並ぶ商品のパッケージには、「糖質〇%オフ」「シュガーレス」といった文言が当然のように並ぶようになり、食生活を見直すのが“ちゃんとした大人”の行動、という空気すらある。
私も年齢を重ねるにつれ、健康への関心は少しずつ高まり、炭酸ジュースを飲む回数は徐々に減っていった。あれだけ好きだったはずなのに、気づけば冷蔵庫の一角に炭酸飲料の姿は見当たらなくなっていた。
■ 禁じた楽しみが生むストレス
けれど、炭酸ジュースを“我慢”しているという意識はずっと残っていた。
いざ映画を観る時間になっても、横に甘い炭酸がないと、何か物足りない。どうしても集中できず、画面から意識が逸れてしまう。楽しみのはずの時間が、どこか義務的で「何かが足りない」と感じるようになっていた。
そんなある日、スーパーで何の気なしに飲料棚を眺めていたときのこと。「強炭酸水 レモン」「ただの炭酸水」といった糖分ゼロ、味気なさ満点の商品が目に止まった。これまでなら完全スルーしていたであろうその透明なペットボトル。ふいに「試してみるか」と思い、カゴに入れた。
家に帰り、コップに注いで飲んでみた。
……「うまい」。
びっくりした。正直、期待はしていなかった。「やっぱり甘くなきゃ飲めないよな」と思う自分がどこかにいた。でも、それはただの思い込みだったらしい。
私は“甘さ”が好きなのではなく、“炭酸の刺激”が好きだったのかもしれない。そう気づいた瞬間だった。
■ 本当に必要だったのは「甘さ」ではなかった
それからというもの、私は完全に「炭酸水派」になった。甘さのない炭酸水で、映画もスナック菓子も以前と変わらず楽しめている。むしろ、罪悪感がなくなったぶん、気持ちはさらに軽やかだ。
味のない炭酸水なんておいしくない。自分には合わない。そう思い込んで避けてきたが、実際に飲んでみれば、自分が本当に求めていたのは“シュワシュワ”という体験そのものだった。
■ 「極論」から見えるもの
この出来事は、今の私の思考に少し面白い影響を与えている。
──もしかして、他にも“極論”で解決できることがあるのでは?
そう思うようになった。
ある朝、またひとつの“極論”を試す機会が訪れた。私は毎朝、牛乳にインスタントコーヒーを溶かした「なんちゃってカフェオレ」を飲むのが日課なのだが、なんとインスタントコーヒーの粉が切れてしまった。買い置きもない。いつもなら「コンビニに走るか…」となるところだが、ふと頭をよぎった。
「もしかして、牛乳だけで良いんじゃない?」
いつも牛乳たっぷりのカフェオレを飲んでるんだから、実質“温めた牛乳”みたいなものでしょ。そんな思いつきで、極論的に“牛乳オンリー”を試してみた。
……「まぁ、アリだな」。
特別感はないけれど、朝のルーティンとしては十分機能する。何より「なければないなりに満足できる」ことがわかった。あれほど“カフェオレじゃなきゃダメ”と思い込んでいたのに、実際は“温かい牛乳”でも気持ちを落ち着かせる目的は達成できてしまったのだ。
■ 目的を達成するハードルは、思ったよりずっと低いのかもしれない
私たちは何かを好きだと思うと、その“完成形”に固執してしまいがちだ。甘い炭酸ジュースじゃなきゃだめ、カフェオレじゃなきゃ朝が始まらない──そんな風に。
でも本当は、その裏にある「目的」にだけ着目すれば、案外簡単に満足できる形が他にもあることに気づく。たとえば──
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疲れているときの“癒し”が欲しい → ペットと遊ぶ、キャンドルの灯りを見る、3分の深呼吸でも代替できる
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夕食の準備が面倒 → 一汁一菜でも栄養は取れる。缶詰を使ったって構わない
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家族団らんの時間が欲しい → 豪華なレストランに行かずとも、スマホを置いて一緒にテレビを観るだけでもいい
目的に対して、実はもっと「ゆるい着地」が可能なのだ。
■ 「こうあるべき」を疑ってみる
「こうじゃなきゃだめ」と思っていることほど、思い切って極論をぶつけてみると、新しい景色が見えてくる。
もちろん、すべての物事がそう簡単にいくわけではない。甘いジュースの代わりに炭酸水を、カフェオレの代わりに牛乳を、というように、似た目的を持つもので代替できるから成立しているだけ、という見方もできる。
けれど、自分の中の“思い込み”が、実はとても小さな枠だったことに気づくとき、ちょっとした解放感がある。自分に対しても他人に対しても、優しくなれる。
■ ぜひ一度、試してみてほしい「極論」
極論を試すことは、時にユーモラスで、時に新しい価値観を教えてくれる。
仕事で、家事で、育児で、自分の毎日の中で、「あれ、もしかしてこういう方法でもいけるんじゃない?」と感じたら、ぜひ試してみてほしい。真面目であることは素敵だが、時には肩の力を抜いて、極端な視点を差し込んでみる。それだけで、暮らしはもう少し面白くなる。
人生の本当の目的って、案外そんな小さな気づきの積み重ねなのかもしれない。