モノと記憶と、少しの学びblog

モノと記憶のよもやま話

空気を読まない選択が、人生を動かす。-多様性の時代に問う、「自分のための生き方」について考えてみた-

「“自分のために生きる”って、どうすればいいの?」

最近、「多様性」という言葉をよく耳にするようになった。それは、LGBTQ+や国籍、人種といった属性に関するものだけでなく、生き方や働き方、さらには価値観や趣味嗜好にまで広がっている。かつては「こうあるべき」とされたことが、今では「それもあり」と受け入れられる時代。選択肢が広がり、「個」を尊重する空気が社会全体に漂っている。

けれど、「なんでもアリ」というわけではないと思う。

それでも私は、この“多様性”という言葉が好きだ。

というのも、私は昔から「みんなが選ぶから自分も選ぶ」という思考に違和感を抱いて生きてきたからだ。特に国語の授業がイヤでイヤで仕方がなかった。

よく授業中に、先生から、主人公がなぜこのような行動を取ったのか答えなさい、といった問題が来る。確かに前後の文章を読めばその時の状況などが書かれているので、問題としての答えは出せる。文章の読解力という学習目的があるのも理解できる。

なので、みな同じように答える。

しかし、私はいつもこう言った「主人公が考えていることなど知らん。分かる訳ないだろう。そんなことを問題にして点数をつけるなんておかしい。」と。

しかし、こうした“自分の意思”が時に「空気を読めないやつ」と捉えられてしまうのが、日本の集団文化の特徴でもあった。

 

大人になるにつれ、その傾向はますます顕著になる。たとえば、社会に出てからの飲み会文化。私はお酒を飲まない。まったく飲まないわけではないが、飲むことに特別な意味を見出せない。だから、最初から飲まない。すると必ずと言っていいほど、「なんで飲まないの?」と聞かれる。こちらが「意味を感じないから」と答えると、相手は大抵苦笑い。中には冗談交じりに「つまらないな〜」なんて言う人もいる。

でも、そもそも聞かなければいいじゃないか、と思う。

 

私のこのスタンスは、子どもの頃から一貫している。何かを選ぶとき、「周りがそうしているから」という理由では納得できない。自分がどうしたいのか、自分にとって何が心地よいのかを大事にしてきた。それが私の“自分のために生きる”という感覚の源泉だった。しかし、それを言語化することはなかなか難しかった。

そんな中、“多様性”という言葉が出てきた。自分の中にぼんやりとあった思いや感覚に、社会がようやく追いついてくれたような気がした。自分の意思や選択が「個性」として尊重される時代。ようやく、自分のスタイルで生きられる空気が整い始めてきたのだ。私と同じような思いをして、何か漠然としない「違和感」を持ちながら今まで生きてきた人は多いも思う。そんな人たちは、この多様性という言葉に、少し安堵しているのではないだろうか?

 

けれど。

 

この「多様性」や「自分らしさ」が誤解されている場面を、最近よく目にするようになった。たとえば、言葉遣いが粗くても「それが自分だから」と主張したり、他人への配慮を欠いた行動も「個性」と言い張ったりする人が増えているように感じる。

それは本当に“自分のために生きる”ことなのだろうか?

私が思う“自分のために生きる”というのは、好き勝手に生きることではない。自分の心と対話し、自分の感覚を信じ、自分の価値観を尊重すること。その上で、他人の存在や価値観もちゃんと認め、尊敬すること。それが本当の意味で“自分らしく”生きることだと思う。

 

たとえば、電車で席を譲るという行為。これも自分にとっての価値観が反映される場面だ。疲れているから座りたい。でも目の前に明らかに体調の悪そうな人が立っている。そんなときに、どう行動するか。譲ることも、譲らないことも、選択だ。ただし、その選択が自分の中で納得できるものであってほしい。

 

過去の日本社会では、選択肢自体が限られていた。男は働き、女は家庭を守る。学生は勉強し、社会人は会社のために尽くす。そういった「型」が前提だった。だが、今は違う。働き方も、家庭の形も、恋愛の形も無数に存在する。

それは未来に向けての希望でもある。自分の価値観に従って生きることが、社会全体の活力につながっていく。違いを認め合い、共存することで新しいアイデアが生まれ、より豊かな社会が築かれる。ただし、それには前提があると思う。

 

それは、「人への敬意」だ。

 

どんなに自分を貫いても、人を傷つけていい理由にはならない。自由には責任が伴う。多様性を受け入れるということは、自分と違う価値観や行動に対しても寛容であること。そして、相手の尊厳を守ること。これを忘れてしまえば、多様性はただの“自己中心的”になってしまう。

 

未来の社会を考えたとき、私は“違うことが当たり前”になる世界を見てみたいと思う。

その世界では、「みんなと違う」ことを怖がる必要はなく、「みんなと同じ」であることに無理をする必要もない。そして、自分の心の声を聞きながらも、誰かの心にも静かに耳を傾けられる。そんな社会であってほしい。

“自分のために生きる”とは、決して孤独になることではなく、自分の人生に責任を持つこと。そして、その責任の中には、他者とのつながりを大切にすることも含まれている。

自分の心に正直に。他人にも敬意を持って。

その繰り返しの中で、ようやく私たちは「本当の意味での自分の人生」を歩き始めるのだと思う。