モノと記憶と、少しの学びblog

モノと記憶のよもやま話

部屋と雨とわたし

雨を楽しみ、味わう

──立ち止まることを、雨が教えてくれる日。

朝から雨が降っていると、どうしても心が沈みがちになる。
せっかくセットした髪の毛が濡れる。服の裾はじっとりと湿り、靴下まで水が染み込むことさえある。
駅に着けば傘のしずくがポタポタと垂れて、電車の床を濡らしている。こんな日には、気分まで水を吸って重たくなる。

「ああ、なんで今日に限って雨なんだろう」
そんな言葉が、思わず口をついて出ることもある。

だが、間もなくやってくる“梅雨”という季節は、避けようのない現実だ。
どれだけスケジュール帳を見直しても、天気予報を何度チェックしても、雨を止めることなど私たちにはできない。
どこかで「仕方がない」と、折り合いをつけるしかない。

雨が嫌いだった、学生時代

私は学生の頃、特に雨が嫌いだった。

サッカー部に所属していた私は、グラウンドが使えない雨の日が苦痛だった。

ボールを蹴ることも、芝生を走ることもできない。

その代わり、体育館の片隅やトレーニングルームで延々と筋トレや地味な基礎練習をさせられる。

サッカーが好きだからこそ、外で思いきり走れない雨の日はもどかしかった。

そして、雨が嫌いだった理由がもうひとつある。

それは、通学中に傘を持っていないときに限って、突然降り出すあの“意地悪な雨”の存在だ。

ランドセルの中の教科書が湿ってふやけてしまったり、制服がびしょ濡れになって体が冷えてしまったり、まるで雨にからかわれているような気持ちになった。

家を出るときは曇り空でも、帰るころには土砂降り。

慌てて走っても間に合わず、髪の毛も服も靴もずぶ濡れ。

帰宅して玄関で母に「うわ、すごいびしょびしょじゃない…!」と笑われながら、タオルを差し出される。

その優しさが余計に、なんとも言えない悔しさを引き出していた。

そんな日々が積み重なって、私は「雨=嫌なもの」というイメージをしっかりと持つようになったのだ。

社会人になってからの雨

社会人になってからも、雨に対して抱く感情は大きく変わらなかった。
傘を差しながら歩く通勤路は、ただでさえ人が多いのに、傘同士がぶつかって気疲れする。
駅に着いても、濡れた床で誰かが滑らないかヒヤヒヤするし、何より自分の服がじっとりと湿っているのが不快だった。
クルマ通勤の日は渋滞がひどくなる。普段よりも10分、20分と到着が遅れる。
急な雨で視界が悪くなり、運転にも神経を使う。
濡れて、混んで、気を遣って──雨の日は本当にいいことがない、そう思っていた。

特に、私が一時期「宅配便の配達」の仕事をしていた頃のことは、今もよく覚えている。

荷物をひとつひとつ届けるたびに、雨の勢いを気にしながら配達しなければならなかった。
玄関前に立ってインターホンを押すとき、少しでも荷物が濡れないように、傘を差しながら箱の上に体をかぶせるような姿勢になることもあった。
「雨の日でも変わらず荷物を待っていてくれる人がいる」と思うと、こちらもできる限り丁寧に届けたいと思っていた。

そして、雨の日は滑りやすい。走れば転ぶ。わかってはいるけど、時間に追われて焦ってしまう。
ある日、細い坂道を駆け下りていた私は、雨で濡れたマンホールに足を取られ、思いきり転んだ。
制服は泥だらけになり、膝からは血がにじんでいた。
それでも配達を止めるわけにはいかず、絆創膏も貼らずにそのまま次の家へ向かった。

あの時ほど、雨が恨めしく感じたことはないかもしれない。
でも同時に、「それでも届けなければ」という仕事への責任感が、自分を少しだけ大人にしてくれた気もする。

変化のきっかけは「音」だった

しかし、そんな私にも、いつの間にか雨に対する気持ちに小さな変化が生まれていた。
それに気づいたのは、とある休日の朝のことだった。

その日は仕事が休みで、目覚ましをかけずに寝ていた。
ふと目を覚ますと、窓の外から雨音が聞こえてきた。
規則的に、柔らかく、時折強く。
まるで一定のリズムを奏でるように、ポツポツと屋根を打つ音が心地よく響いていた。

「ああ、雨か……」
そう思いながら、再び毛布の中にもぐり込んだ。

このとき、私は何とも言えない“幸福感”に包まれていた。
外は雨。だけど、自分は今日、家にいてもいい。
あの嫌な満員電車に揺られる必要もない。
急ぎ足で会社へ向かうこともない。
そんな当たり前のことが、雨音によって“特別なもの”に変わっていたのだ。

雨音が、心のざわめきを洗い流す

それ以来、私は「雨音が心を整えてくれる」ことに気づくようになった。

忙しい毎日の中で、仕事や家事、育児や人間関係に追われる日々。
そんな中でふと立ち止まることが難しくなっていた。
けれど、雨音は不思議と、そうした雑音を静かにかき消してくれる。

まるで、自分の心の中にある“ざわざわ”や“イライラ”を、
ひと粒ずつ優しく洗い流してくれるような気さえするのだ。

心のなかの余計なノイズが消えると、自分の内側から小さな“声”が聞こえてくる。
「ちょっと疲れてない?」「ちゃんと自分をいたわってる?」
そんな問いかけに、ようやく気づけるようになる。

実家の軒先で見た夏の夕立

雨の日の記憶をたどっていくと、思い出される風景がある。

私がまだ小学生の頃、夏のある夕方、父と庭でキャッチボールをしていた。
ぽつ、ぽつ…と雨粒が落ちてきたと思ったら、あっという間に空がかき曇り、激しい夕立になった。
慌ててグローブを抱えて家の中に戻ろうとした私を、父が呼び止めた。

「ほら、縁側に座ってちょっと見てみな」

言われるがまま、父と並んで実家の軒先にある木のベンチに腰掛け、夕立の雨を見ていた。
アスファルトをたたく雨音、葉っぱの上に跳ねる水しぶき、遠くで鳴る雷の音。
夏の熱気を冷ますようなその雨に、父と私は黙って見入っていた。

雷の光に一瞬照らされる空の下、私は母が出してくれた麦茶を飲みながら、ただじっと雨を見ていた。

何もしない時間。何も考えない時間。
けれど、五感は研ぎ澄まされ、心だけが静かに動いているような感覚。

その記憶は、今も私の中に深く残っている。
そして、いつしか「雨が嫌い」という感情の中に、
「でも、あの風景は好きだったな」という温もりが混じるようになった。

雨の日に思い出す人たち

不思議なもので、雨の日には人を思い出すことが多い。
私の場合は、実家の両親や昔の地元のサッカーのチームメイト、配達の仕事をしていた時のトラックドライバー仲間だ。

特に自分が親になってから強く思い出されるのは、実家の縁側に座って一緒に雨を見ていた父と母。

大人になって離れて暮らすようになってから、
そんな何気ない風景のありがたさに、ようやく気づいた。

雨は、ただ空から水が落ちてくるだけのものじゃない。
誰かの記憶を、感情を、ぬくもりを呼び起こす「スイッチ」なのかもしれない。

憂鬱な雨が教えてくれるもの

確かに、雨は面倒だ。
傘を差すのも煩わしいし、洗濯物は乾かない。
外出の予定があればテンションは下がるし、
梅雨の季節などは「いつまで続くんだ」とため息もつきたくなる。

けれど、そんな“嫌な雨”の中にも、
実は“味わう価値”が潜んでいることに、私は気づいた。

・布団の中で雨音を聞きながら過ごす休日の朝
・窓に伝う雨粒を眺めながら飲む一杯のコーヒー
・予定が流れて、ぽっかりと空いた一日をゆっくりと過ごせること
・子どもと家の中でのんびり遊ぶ時間

すべて、「雨だからこそ」生まれる時間だ。

雨は、現代人への“呼びかけ”かもしれない

いつからか私は、こう思うようになった。

「雨」というのは、忙しすぎる現代人に向けた自然からの“呼びかけ”なのかもしれない、と。

──立ち止まりなさい。
──空を見上げなさい。
──耳を澄ましなさい。
──あなたは、ちゃんと自分を大事にしていますか?

そんなメッセージが、あの雨音の中に紛れているのかもしれない。

最後に──雨とともに暮らす

これからまた、梅雨がやってくる。
きっと今年も、あちこちで「いやだな」「洗濯物が……」という声が聞こえてくるだろう。
私も、朝の通勤で靴が濡れればきっと、多少は不機嫌になる。

けれど、その一方でこうも思う。

雨が降るからこそ、気づけることがある。
雨が降るからこそ、味わえるものがある。

そう考えたとき、少しだけ視点が変わる。
雨を「避けるもの」ではなく、「寄り添うもの」として見つめてみる。
そんな余裕を、今年の梅雨は持ってみたいと思う。

雨の日に、少しだけ心をほどく。
その時間こそが、もしかしたら一番の“贅沢”なのかもしれない。