子供の頃からドッキリ番組に嫌悪感を持っていたが、大人になっても変わらない
子供の頃、日曜の夜やゴールデンタイムのテレビ番組といえば、家族みんなで笑って見るバラエティ番組が定番だった。中でもよく目にしていたのが「ドッキリ番組」だ。芸能人やタレントが突然不可解な状況に巻き込まれ、驚いたり、怒ったり、時には涙を流したりする。周囲は隠しカメラでその様子を見てゲラゲラと笑い、最後に「ドッキリでした〜!」とネタバラシ。見ている人も「まんまと引っかかったな〜!」なんて楽しげに笑う。
でも――私は、どうしても笑えなかった。
当時は言葉にするのが難しかったが、何かが「違う」と思っていた。誰かを騙して、その人の戸惑いや悲しみ、怒りを「ネタ」にして笑いを取る。そんなものがどうして面白いのか、心の底から理解できなかった。自分がその立場だったら?きっと怒りよりも、深い傷つきが先に来る気がした。恥をかかされるような場面で、大勢に笑われる。それがエンタメなのだとしたら、あまりにも残酷すぎる。
中学三年の頃、僕はテレビから自然と距離を置くようになっていった。受験勉強という理由もあったけれど、それ以上にテレビをつけたいと思わなくなった。代わりに漫画を読んだり、ギターを弾いたり、友人たちとバンドの練習をしたり、テレビよりもずっと楽しい世界が広がっていた。次第にテレビという存在は、僕の生活の中からフェードアウトしていった。
その流れは、大人になっても続いた。就職先は労働時間の長いブラック企業。帰宅は毎日深夜。わずかな自由時間は、資格取得の勉強に費やしたり、たまに見る動画サイトで自分の興味のあることを調べたり。もう「テレビを見る」という習慣そのものが、自分の中から完全に消えていた。
2010年ごろには、情報収集もエンタメもYouTubeが中心になった。テレビのチャンネルの番号すら分からなくなっていた。実家に帰省した際に親から「〇〇のチャンネルに変えて」と放送局の名前を言われて、思わず「何番だっけ?」と聞き返してしまったとき、自分の“テレビ離れ”を実感した。
そんなある日、久しぶりに実家のリビングで何気なくテレビを見た。親がつけたまま離れたので、そのままにしていたのだが、画面から流れてきたのは、かつて何度も見て嫌悪感を抱いた「ドッキリ番組」だった。変わったのは僕の年齢だけで、番組の構成も手法も、あの頃と何一つ変わっていなかった。
「まだこれをやってるのか…」
思わずため息が出た。
令和のこの時代、SNSが普及し、コンプライアンスやハラスメントへの意識がかつてないほど高まっている。ジェンダー、多様性、差別、いじめ。あらゆる分野で「相手の尊厳を守ること」が声高に叫ばれているはずなのに、公共の電波で、誰かを騙して笑いを取るという構造が、いまだに“娯楽”として成立している。そのことに、心底驚いた。
もちろん、演出として台本があるのかもしれない。本気で騙されていないケースもあるかもしれない。でも、視聴者が求めているのは“リアルな反応”であり、それを笑い者にする構造は昔と何も変わっていない。人を騙して笑うという行為は、言い方を変えれば“詐欺の縮小版”ではないか。しかもそれが、企業のスポンサーによって支えられ、全国に放送されている。モラルは、どこへ行ってしまったのだろう。
一方で、YouTubeをはじめとした動画コンテンツの世界は、驚くほどに自由で、そして個人が尊重される空間へと変化している。誰もが自分の得意なこと、好きなこと、話したいことを発信できる。ニッチでマニアックな分野でも、それを必要とする視聴者が世界中にいて、「わかるよ」「それ、好きだよ」と共感してくれる時代だ。
いや、むしろ「ニッチ」と言われていたことこそ、これまで埋もれていただけで、実は普遍的な価値を持っていたのではないか。個人の声が「面白さ」や「価値」になる時代。それが、僕にとってのYouTubeであり、今の映像文化の希望だ。
そんな時代にあって、まだテレビは「人を笑いものにして笑いを取る」ことにしがみついているのかと思うと、もはや哀れにすら感じてしまう。たったひとつの笑いの形しか知らないのだとしたら、それはとても貧しい。
子供の頃に感じていた違和感。それは今も変わっていなかった。むしろ、大人になって言語化できるようになったからこそ、自分の感覚は間違っていなかったと確信すらした。
そして同時に思うのだ。これからの時代に必要なのは、誰かを貶めて得られる「笑い」ではなく、自分の弱さや経験をシェアし、そこに誰かが共感し、自然と心がほぐれて「ふふっ」と微笑んでしまうような、そんな優しい笑いなのだと。
映像コンテンツの未来には、もっと温かな物語があってほしい。ドッキリで誰かを泣かせるよりも、人生のどん底で悩んでいた人が、ある動画を見て「明日もう一度頑張ってみよう」と思えるような。そんな希望を灯すようなコンテンツが、これからもっと増えていってほしい。
テレビの中に自分の居場所がなかったあの頃。でも今は、自分で自分の場所を作れる。理解者を見つけられる。だからこそ、もう過去の笑いに縛られる必要はない。
そして、あの日感じた違和感は、やっぱり間違っていなかったと、今になって確信している。