「静かすぎる家に、ふと感じる違和感──“無音化”された電化製品の先にあるもの」
「ブーン……」「カタカタカタ……」「シューッ……」
あの頃の我が家には、確かに“音”があった。
冷蔵庫の低い唸り声のような音が台所の隅から聞こえてくる。炊飯器からは、もうすぐご飯が炊けるよと知らせるかのように立ちのぼる蒸気音。洗濯機が脱水に入ると、ガタガタと大きな音を立てて、まるで頑張ってる姿そのもののように感じた。そして、たまに映像が乱れるテレビは、バンッと横を叩くと不思議と直ったりもした。
それらの音が、生活の一部だった。いや、家族だったようにすら思える。
■「音」は、暮らしの鼓動だった
昭和や平成初期の家庭には、電化製品の“音”が確かに息づいていた。決して静かとは言えなかったけれど、そこには「生きてる感じ」があった。冷蔵庫が音を立てれば「ああ、ちゃんと動いてるんだな」と安心し、炊飯器の蒸気に耳をすませば「もうすぐご飯だ」と胸が高鳴る。洗濯機の轟音さえ、「家事が進んでる証拠」だった。
それらの音は、ただのノイズではなかった。むしろ、“暮らしのBGM”のような存在だったのだ。
■今の家電は、優秀で、静かで、でも…
今や、家は驚くほど静かだ。エアコンは音もなく冷気を出し、冷蔵庫もほとんど音を立てない。炊飯器は静かに炊きあげ、洗濯機も振動を抑えてなめらかに回る。テレビも液晶になり、叩いて直す必要なんて、もちろんない。
確かに、これは技術の進歩だ。快適だし、眠りを妨げることもない。小さな赤ちゃんがいても安心できる。文句を言う理由は、どこにもない。
でも、ふとした瞬間に思うのだ。この静けさの中で、「家電が生きている」感じがしないのは、なぜだろう?
まるで、“暮らしの気配”がそっと消えてしまったような、そんな寂しさが心のどこかに残る。
■音のない快適さと、情緒ある暮らしのあいだで
無音化が進むことで、私たちは確かに効率や快適さを手に入れた。けれど一方で、電化製品の音が教えてくれていた“暮らしの実感”や“時間の流れ”といったものが、少しずつ失われているのかもしれない。
あの「ブーン」という冷蔵庫の音が夜中に響いていたからこそ、「みんなが寝静まった夜」という感覚があった。炊飯器の「シュー」という音があったからこそ、家中が“ごはんの時間”に包まれていた。
無音は、便利だ。でも、情緒はどこにいったのだろう。
■「便利さ」だけでない、“暮らしの余白”を思い出す
時代は進む。家電も進化する。音をなくすことが、正義だった。
けれど、私たちが忘れてはいけないのは、「暮らしには音があった」という事実だ。
それは決して、うるさいノイズなんかじゃなかった。
家族をつなぐリズムであり、時間の合図であり、心を動かす感情のトリガーでもあった。
効率も、快適さも、もちろん大切。
でも、そのなかにある“暮らしの情緒”も、大切にしていきたい。
今だからこそ、あの音たちのことを、少しだけ思い出してみませんか?