公園の遊具の変化に思う
① 公園で遊ぶ子供たちを見て思い出す、昔の風景
先日の休みの日、久しぶりに子どもたちを連れて近所の大型公園へ出かけた。
目の前に広がるのは、まるで迷路のように入り組んだアスレチック遊具。滑り台がいくつも連なり、ロープのネットやトンネル、つり橋、登る場所も滑る場所も、どこから遊んでいいのかわからないほどのスケール感だ。
隣には、三角錐の形をしたロープジャングルがあり、太いロープをよじ登る子どもたちの姿。まるで現代の忍者修行場のような雰囲気に、私もついつい見入ってしまう。子どもたちは大はしゃぎで、滑って、登って、跳ね回って、あっという間に汗びっしょりだ。
その楽しそうな姿を見ながら、ふと自分が子供だった頃の公園を思い出した。
② 昔の公園遊具:独立型が当たり前だった時代
私が子どもだった昭和〜平成初期。
公園にある遊具と言えば、だいたい決まっていた。ブランコ、滑り台、ジャングルジム、シーソー、鉄棒――。どれも独立してぽつんと置かれていて、空き地のような広場に、まばらに点在しているのが普通だった。
ブランコは、座る板が冷たくて硬く、チェーンの音がギシギシと響いていた。高くこげると、それだけでヒーローになれた。滑り台は鉄製で、夏にはやけどしそうなくらい熱くなった。ジャングルジムは、落ちると痛いのに、上まで登って景色を眺めるのが好きだった。シーソーはバランスゲーム。友だちと真ん中でジャンプしては、思いきり揺れて笑っていた。鉄棒は…逆上がりができるかどうか、それが一つの“成長の証”だった。
いずれも、シンプルな構造で、遊び方は自分たちで考えていた気がする。
「この鉄棒で何ができるか?」と試行錯誤し、「この滑り台をどうやって2人乗りできるか?」と冒険し、時にはけがをし、怒られて、また挑戦する。
今思えば、不便で、不格好で、でも妙に自由だった。
③ 現代の公園遊具:一体型・複合型が主流に
一方、今の公園の遊具はまるで“遊びの城”だ。
一つの巨大な建造物の中に、滑り台、登り口、トンネル、ボルダリング、ロープ、隠れ家のようなスペースまで盛り込まれている。どこから登っても、どこから滑っても、ちゃんとつながっている。そしてカラフルで丸みがあり、デザインもユニバーサルな配慮がされている。
遊具が一体化されていることで、子どもたちが自然と順路を見つけながら、ぐるぐると周回しながら遊ぶような流れができているのも特徴だ。昔のように、遊具から遊具へと移動する必要がなく、遊びの集中が高まり、保護者の目も届きやすい。
さらに、地面には転倒対策のための柔らかいマットやウッドチップが敷かれ、角はすべて丸く、安全対策が徹底されている。遊具に限らず、公園の水道やトイレもキレイになっており、全体的に“洗練された遊び場”という印象だ。
④ なぜ公園遊具は変化したのか?
この変化の背景には、いくつかの大きな理由がある。
● 安全面への配慮
1990年代以降、全国的に「公園での遊具事故」が報道されるようになり、自治体や保護者の安全意識が大きく高まった。角が尖っている、鉄製で熱くなる、落下の危険がある遊具は、撤去や改修の対象になり、シーソーやジャングルジムが消えていった背景には“責任問題”の存在もある。
● 少子化と遊具の多機能化
子どもの数が減る中でも、限られた人数で満足度の高い遊びを提供する必要が出てきた。一体型の大型遊具は、複数の要素を詰め込むことで、1台でいくつもの遊び方ができる=効率的な遊び場の提供という意味でも理にかなっている。
● 教育的配慮
文部科学省の指導方針などでも、「体幹を育てる」「バランス感覚を養う」「協調性を育む」といった目的で、公園遊具に教育的要素を求める傾向が強まっている。遊具はただの“娯楽”ではなく、“学びの場”として進化しているのだ。
● バリアフリー化・誰でも遊べる公園へ
車いすでも楽しめるように設計された遊具、点字案内、視覚障害者向けの工夫など、「誰ひとり取り残さない」設計思想も加わってきている。これも時代の変化を象徴している。
⑤ 変化の中に残る「子どもたちの本質」は変わらない
どれだけ遊具の形が変わっても、結局のところ――子どもたちは、遊ぶ。
登る、跳ねる、隠れる、滑る、探検する。そのすべてが「楽しい!」に結びついている。私が子どもだった頃も、うちの子どもたちも、本質的には何も変わっていない。
遊びの中で、小さな達成感を味わい、時にはケンカをして、仲直りして、汗をかいて、帰り道で眠ってしまう。
それは昔も今も、変わらない“子ども”という存在のままなのだ。
⑥ 親として見つめる、時代とともに進化する“遊び場”
公園は不思議な場所だと思う。
自分が子どもだった頃、ただの遊び場だったその空間が、大人になり、親になってから訪れると、まるで別の場所のように見えてくる。
遊具の素材も形も遊び方も、大きく変わっている。
でもそこで遊ぶ子どもたちの笑顔だけは、昔の私と重なる。
変わりゆく時代の中で、公園はただ遊ぶ場所ではなく、「子ども時代」と「親になる自分」をつなぐ、不思議な“記憶の交差点”なのかもしれない。
今日も、子どもたちの元気な声が、遊具の間を駆け抜けていく。