モノと記憶と、少しの学びblog

モノと記憶のよもやま話

昼時に誰もいないラーメン屋で学んだこと

昼時に人がいないラーメン屋で、僕が得た小さな教訓

外回りの仕事をしていると、「お昼をどこで食べるか」は、実はかなり重要なテーマだったりする。

午前中の仕事をなんとかこなし、ようやく時計の針が12時を回る頃、胃袋が「そろそろだよ」と合図を送ってくる。僕はその合図を受け取ると、自然と歩く速度が少しだけ速くなる。いつもなら、「今日はあそこのカツ丼にしよう」とか、「あの定食屋の焼き魚、そろそろ食べたいな」とか、頭の中には選択肢がいくつも並んでいる。でも、ここ数ヶ月は違った。

イレギュラーな仕事の対応で、今まで一度も足を踏み入れたことのないエリアに行く機会が増えていた。知らない土地。馴染みの店は一軒もない。何があるのか、何が美味しいのか、地元の人しか知らない情報ばかりだ。

もちろん、そんなときこそスマホで調べればいい。レビューサイトや地図アプリの情報は豊富だ。でも、僕はそこにあえて頼らない主義だった。写真の加工もレビューの偏りも、あまり信用していない。それよりも、自分の直感を信じて歩くのが好きだった。

そして、昼時の路地をふらふら歩きながら見つけたのが、件のラーメン屋だった。

店内に流れる、静かすぎる空気

「お、ラーメン屋か……いい匂いはしてるな」

看板に書かれた「昔ながらの中華そば」の文字にひかれて、僕は引き戸を開けた。チリン、と鈴の音が鳴る。しかし、返事はない。カウンター席には誰もおらず、テーブル席にも人影はない。

「いらっしゃいませ〜」と奥から店主らしき男性がのそのそと出てきた。年配で、無愛想というわけではないが、愛想もない。

少しだけ、嫌な予感がした。

でも、まあいいか、と自分に言い聞かせて、「中華そば」を注文した。

待っている間、僕は店内をぐるっと見回す。テレビは消えている。BGMもない。窓際には色褪せた漫画雑誌が山積みになっていた。なにより、昼時なのに僕一人しかいない。その事実が、じわじわと胸をざわつかせる。

出てきたラーメンと、失望のスープ

ほどなくして出てきたラーメンは、見た目だけは悪くなかった。昔ながらという言葉に偽りはなさそうな、懐かしい風貌だった。

でも、ひとくちスープをすすった瞬間、思った。

「……あ、これ、やっちまったかも」

薄い。コクがない。ぬるい。

麺もゆですぎなのか、歯ごたえがない。チャーシューは嚙み切れない。

それでも完食はした。僕は残すのが苦手な性分なのだ。ただ、席を立つ頃には、しっかり後悔していた。

静かすぎる店には理由がある

店を出て、再び街を歩きながら僕は思った。

外回りの仕事をしている以上、これは初めての経験ではなかった。

「なるほどな……昼時に人がいない店には、それなりの理由があるんだな」

たまたま空いていた、という可能性もある。味の好みも人それぞれだ。でも、経験上「昼時にガラガラの飲食店」には、何かしら共通点があるような気がしてならない。

・味がイマイチ
・量が少ない
・価格と満足感が見合っていない
・接客が雑

何か一つでも引っかかると、自然と人は寄りつかなくなる。昼時に賑わっている店には、それだけの価値があるのだ。

あえて混んでいる店に入る勇気

以来、僕は少し考え方を変えた。

「空いているから入りやすい」ではなく、「人がいるから信頼できる」と思うようになった。多少並んでいても、それはきっと「美味しさ」の証だ。そう思えば、並ぶ時間も悪くない。

あるいは、無難にチェーン店に入るのも一つの選択肢だ。味はそこそこ、接客も一定、ハズレは少ない。個人店に賭けるロマンもいいが、外れたときのダメージはなかなか大きい。

たかが昼飯、されど昼飯

ほんの15分の食事に、なにをそんなに考えてるんだと思われるかもしれない。でも、外回りの仕事をしていると、「食事」は数少ないリフレッシュの時間だ。

その大切な時間を、ぬるいスープで台無しにされるのは、やっぱり悔しい。

だから、僕はこれからも、昼時に混んでいる店を信じてみようと思う。店の外にできた行列は、「信頼」のバロメーターなのだから。