モノと記憶と、少しの学びblog

モノと記憶のよもやま話

自己嫌悪と決別!スマホ依存からの解放へ

ベッドサイドにスマホ…やめたいけどやめられない

──眠りと自己嫌悪のはざまで

夜、布団に入ったあと。
部屋の明かりを消し、横になってからも、なぜか手がスマホを探している。

誰に言われたわけでもない。
義務でも、必要でもない。
ただ、つい手に取ってしまう。
気づけばSNSをチェックし、動画を流し見し、ネットニュースを一通り読んでから、ようやく画面を閉じる。

深夜1時。
「やってしまった」
いつもの後悔が、また始まる。

睡眠の質が確実に下がっているという事実

医学的な話をするまでもなく、実感として分かっている。
寝る直前までスマホを見ていた日は、眠りが浅い。
途中で目が覚めたり、朝起きたときにだるさが残ったりする。

ブルーライトが睡眠ホルモンの分泌を抑えるとか、脳が覚醒状態になるとか、そんな話は何度も聞いた。
でも、知識が行動に直結するなら、世界に依存症は存在しない。

「寝る前のスマホはよくない」
そんなことは、もうみんな知っている。
それでもやめられない。

そして次の日、日中に眠くなる。
集中力が切れる。
ミスが増える。
感情のコントロールも効かなくなる。

スマホのせいだと分かっている。
だけどその現実から、目をそらしたくなる。

「分かってるのにやめられない」依存と習慣のメカニズム

なぜやめられないのか。
答えは単純だ。気持ちいいからだ。

スマホには、あらゆる快楽が詰まっている。
面白い動画。
流れてくる刺激的なニュース。
誰かの日常。
タイムラインは、常に何かしらの「動き」で満たされている。

一方で、ベッドに入った瞬間の「静けさ」は、とても重い。
今日あったイヤなこと。
やらなければならないこと。
誰にも話せない後悔。
そういったものが、ふと浮かび上がってくる時間でもある。

その“静けさ”から逃げるために、手がスマホに伸びる。
何かに集中していれば、何も考えずに済むから。

スマホはもはやただの道具ではない。
現代人にとっては、“逃避”の装置であり、“安らぎ”であり、“時間を殺す”ための道具にもなっている。

主導権は、もうこちらにはない。

自己嫌悪の悪循環

「またやってしまった」
「今日も寝不足」
「全然ダメだ、自分」

スマホに触れた時間よりも、あとに残る“自己嫌悪”のほうが重たい。

それでも次の日もまた同じことを繰り返す。
寝る前の10分、15分だけのつもりが、30分、1時間と過ぎていく。
「寝よう」と決意して布団に入ったはずなのに、目覚めたときには後悔しか残っていない。

この繰り返しが、習慣になる。
習慣になると、やめるのがますます難しくなる。
「これくらいはいいか」と思い始める。
でも本当は、それが“心の健康”をじわじわとむしばんでいる。

スマホが悪いのではない。
ただ、使われ方がいつの間にか“無意識”になってしまっている。
そしてそのツケを、毎朝、自分の身体と心が支払っている。

解決に向けてできること

誰もが分かっていることを、改めて並べるしかない。
けれど、それを“実行する工夫”がなければ、何も変わらない。

まず、物理的な距離をとる。
スマホは寝室に持ち込まない。
アラームは目覚まし時計で代用する。

次に、ルールをつくる。
「寝る30分前にはスマホをやめる」
それだけでもいい。タイマーを使ってもいい。

そして、“スマホの代わり”を用意する。
本を読む。
音楽を聴く。
軽くストレッチをする。

何かをやめるときには、必ず“代替行動”が必要になる。
そうでないと、脳は元の快楽を欲して戻ってしまう。

無理に我慢する必要はない。
ただ、少しずつ“主導権”を取り戻す意識があれば、それだけで第一歩になる。

おわりに

ベッドサイドにスマホがあることは、今やごく普通のことだ。
誰もがやっているから、自分も気にせずに続けてしまう。
だが、「普通」だからこそ、その違和感に立ち止まってみることが必要なのかもしれない。

夜、静かな部屋で、スマホを手に取る自分。
その姿に、何を感じるだろうか。

もしも、ほんの少しでも「やめたい」と思っているなら、きっと心はもう、限界を知っている。

自分を大切にするというのは、派手なことではない。
一日の最後、眠りにつく前の10分をどう過ごすか。
それが、明日の自分をつくっていく。